映画「長い散歩(ながいさんぽ)」感想
製作:日本’06
監督:奥田瑛二
ジャンル:ドラマ
【あらすじ】名古屋。アルコール依存症の妻を亡くし、一人娘からは憎まれる元校長の安田松太郎。逃げるようにアパートに引っ越した彼は、隣人の幼い娘が虐待を受けていると知る。彼は少女を救い出し、ふたりで空を見に山を目指すのだった。
なんというか、一部の理解不能行動のために受け入れられない作品。
一番わからないのは、元校長である松太郎が隣人を殴って少女を連れ出すという行動に出たこと。”少女が危険だと思ってとっさに”ならまだしも、計画的犯行ですからね。数日前から、体を鍛えて坊主にして装備を整えてました。
役所は信用ならん!という出来事が過去にあったとか、一度は通報したけどダメだったとか、そういう事もないので『こいつ本当に校長やってたんか』と言いたくなります。なんども少女を一人にする事があり、親だったということすら疑問。
→以下ネタばれ注意
次に最悪なのが、途中で旅に加わる青年ワタルが、こともあろうに少女の目の前で拳銃自殺すること。こいつはアフリカ生活でひきこもりになり、日本に帰っても居場所を見出せなかった孤独な青年。自分の存在を誰かの記憶に留めようとするかのように、少女とこころを通わせていました。
これが最後の仕上げって訳ですか?
現代社会の問題を提起したかったのなら、自殺したワタルの足跡をたどる兄弟かなんかを登場させればいいだけの話ですし。警察が松太郎への疑いを深める出来事が欲しかったのなら、少女の母親のヒモを上手く動かせば、同じ役割を果たせたんじゃないでしょうか?
何故こんな流れにしたのか…残酷にも程があります。
また、少女を慰めようとした松太郎が、鳥の雛を巣から持ってきて見せ、数日後に雛が亡くなっているというエピソードも微妙でした。
人間の匂いのついた雛を親鳥が見捨てるという話は(真偽のほどは定かではないけど)結構知られています。そうすると、松太郎に連れ出された少女(いつも天使の翼を背中につけてます)の悲しい未来を暗示してるということでしょうか?
その後、金魚が瓶の中で窒息しそうになっていたのを池に放す(たいていの場合、自然淘汰されます)シーンや、少女が山で走ってジャンプしたのを松太郎がキャッチするシーンなど、”運命を変えた”と思わせないでもないシーンはあるけれど…やっぱ微妙。
少女が保護された後のことが全く描かれないのも不安なんですよね。少女の首には(見えなくても)母親の手の跡が残っているはずなので、そのまま母親と暮らすことは考えられません。母親も虐待されて育ったらしいので当てになる親戚はいないだろうし、施設に入ったと思われます。
ラストで出所した松太郎が少女に会いに行くけれど、(おそらくマスコミを騒がせただろう)誘拐犯が面会を許されるんでしょうか? どちらにしろ、少女は独りぼっちになってしまった気がします。
ただ、少女の描き方はとても良かったと思います。演技も上手だし。
心を閉ざしていた頃は、気に入らないことがあれば叫んだり叩いたりしていて、母親にこんな扱いを受けていたからこういう風にしか出来ないんだなぁと胸が痛みました。それが、しだいに松太郎を信頼するようになり、ワタルとの出会いで笑顔を取り戻して(それなのにあの野郎!)、公園で三人で楽しそうに遊ぶ姿には目頭が熱くなります。
「わたしは母に育てられたようにあの子を育てているだけよ。」と言っていた母親が、この姿をみたらどう感じるだろうかと考えてしまいました。
なんだか長くなってしまいましたが、2006年のモントリオール映画祭でグランプリを受賞しようと、この作品が好きなひとが沢山いようと、ワタルがいる限り私には好きになれない作品でした。